彫又

初代彫又 枡屋又兵衛

堺彫又は、上地車彫刻界において相野一門や小松一門より時代は後年に発生した一門であると考えているが、上地車彫刻界においてなくてはならない存在と言ってよい。ただ、その初代である枡屋又兵衛については、これまで刻みや墨書きも見つかっておらず、ある文書の一文に名があるだけであり、もしその文書で初代彫又 枡屋又兵衛の名前が登場しなければその名前は世の中に出ていなかったと考えられる。四世 竹本春太夫が初代彫又 枡屋又兵衛であるとのことから、四世 竹本春太夫の記録より初代彫又 枡屋又兵衛について遡及したいと考える。

「郷土和泉」15号で友渕鬼算氏が、彫又についての文書を記載しており、その文書は、“社寺彫刻の大家西川利勝先代より承る”すなわち西岡又兵衛の直弟子である西川竹蔵からの聞き取りとなっており、友渕氏の文書はかなり情報の精度が高いと思われるがその文書中の初代彫又 枡屋又兵衛に関する記述で明らかなのは以下の部分のみである。

    枡屋又兵衛は、「永福町東側」に居住していた。

    枡屋又兵衛は、京都西岡出身である。

    枡屋又兵衛は、彫又初代である。

一方、四世 竹本春太夫に関しては、浄瑠璃の文書や五世 竹本春太夫が建立した三世、四世 竹本春太夫の墓石等から以下の部分が読み取れる。

    四世 竹本春太夫は、枡屋又兵衛という名前である。
     
(竹本摂津大掾 二代目 越路太夫 水谷弓彦(不倒)著 から)
   
四世 竹本春太夫は、「戎之町西六間筋」に居住
     (竹本摂津大掾 二代目 越路太夫 水谷弓彦(不倒)著 から)

    四世 竹本春太夫は、文久2年(1862)10月25日に没している。
     (四世竹本春太夫の墓石がある林昌寺の過去帳から)

前段からW氏の著書は、友渕氏の文書をベースに以下のどちらかにより記載されたと考えられる。

@    枡屋又兵衛というキーワードを元に「永福寺町東側」、「戎之町西六間筋」が近くであること、また、大和谷姉妹(西岡又兵衛の息子 大和谷市松の子)から西岡家は、浄瑠璃が得意で見台やたくさんの謡本があったとの聞き取りから初代彫又 枡屋又兵衛=四世 竹本春太夫として四世 竹本春太夫の情報を初代彫又 枡屋又兵衛の情報に付与していった。

A    枡屋又兵衛は四世 竹本春太夫であるとの聞き取りができたことから初代彫又 枡屋又兵衛=四世 竹本春太夫であると記載した。

「摂河泉だんぢり談義 地車工匠編」では、「同姓同名・同時代に堺が産んだ人物かも知れない。が」と記載していることから地車工匠編執筆時点では、@の推測により記載していたと思われる。ただ、その後「浪花木彫史」では、断定しており、Aのようにどこかで根拠を掴んだ、もしくは、@の段階での推測を根拠はなく断定してしまったかのどちらかであると思われるが、Aで記載したような事実を聞き取りで掴んでいたのであれば「摂河泉だんぢり談義 地車工匠編」で断定していると思われる為、推測を後年根拠なく断定にしてしまったというのが事実ではないかと推測する。

ただその推測は、以下の点から十分考えられることであるとも思われる。

    ほとんど筋一本違いの地域で同時期に枡屋又兵衛という人物が存在したとは考えづらい。

    天保13年に四世 竹本春太夫は五世 竹本春太夫に名跡を引き継いでおり、その後亡くなるまで“春楽”と名を変えて素人相手に浄瑠璃を教えたとの記述が「増補浄瑠璃大系図 中」にあり、大和谷姉妹の浄瑠璃が得意というのは、晩年の四世 竹本春太夫のことを言い表していたとも考えられる。

逆に考えづらいこととしては、

    林昌寺の墓石には日本因会(ちなみかい)との記載があり、素人浄瑠璃ではなくプロの浄瑠璃太夫であるとの極めがあることから、そのような人物が彫物師を片手間もしくは本業として営んだとは思いづらい。

※因会とは、当時素人太夫が舞台に上がることが発生してきており、素人とプロの違いについて因会に属しているかどうかで判断していたようである。

初代彫又 枡屋又兵衛が四世 竹本春太夫と同一人物であるかどうか判断できる為には、初代彫又 枡屋又兵衛について記述された文書が発見されるのが一番の近道である。しかし、これまで出てこなかったところをみるとなかなか発見は難しいと思われる。戸籍を辿ることができれば一番容易ではあるが、W氏もすでに西岡氏の戸籍は確認しているように思われる節があることからそれもなかなか難しいのはないかと思われる。

四世 竹本春太夫から遡及してみたが、四世 竹本春太夫についての文書の中には、彫物大工としても活躍したとの文言はなく、没年は、林昌寺の過去帳から引用している為、初代彫又 枡屋又兵衛の没年と同じ(引用が同じ)となり、同一人物であるという確証は得ることができなかった。調査に関しては続けたいが現状はここまでである。

二代目彫又 西岡又兵衛

彫又の名を摂河泉に広めたのは、二代目彫又事西岡又兵衛といって過言ではない。

この西岡又兵衛の墨書き、刻みの入った地車は沢山ある。ただ、彫物のイメージがまったく違うものまで西岡又兵衛の刻みや墨書きが入っている点があり、余計に枡屋又兵衛の存在がクローズアップされる。

今回は、四世 竹本春太夫が初代彫又 枡屋又兵衛であると言われているがゆえに、二代目彫又 西岡又兵衛は、五世 竹本春太夫であるとの誤解があるのでその点について誤解を解いておく。

二代目彫又 西岡又兵衛についても初代彫又 枡屋又兵衛と同じく文書によってその人物を特定できるような記述はない。但し、五世 竹本春太夫に関しては、初代 竹本春太夫以来の名人として有名であった為、文書に残っている。

その文書によると五世 竹本春太夫は、「泉州堺鍛冶屋町(かじやまち)煙草庖丁鍛冶業長原(ながはら)四郎兵衛の子にして、幼名(ようめい)を弥三郎といへり。」とあり、四世 竹本春太夫の実子ではない。

天保13年に四世 竹本春太夫の養子となるが、名跡を継ぐまで東京大阪を行き来しており、名跡を継いだ跡も東京大阪を行き来している。実際問題としてそのような状態で彫物大工として活躍していたとは考えづらい。

決定的な事項としては、西岡家の菩提寺である月蔵寺の過去帳では西岡又兵衛は、明治13年に没しているが、五世 竹本春太夫は、明治10年に没している。

以上のことから二代目彫又事西岡又兵衛と五世 竹本春太夫は、同一人物でないことはあきらかである。

     (参考文献:(竹本摂津大掾 二代目 越路太夫 水谷弓彦(不倒)著 )