相野一門

相野を名乗る地車・太鼓台を手がけた彫物師はこれまで相野藤七、相野伊兵衛、
相野徳兵衛、相野伊造、相野音五郎、相野夘兵衛などが見受けられる。その中
でも地車・太鼓台の彫物師として相野一門を認識させたのは、相野伊兵衛、相野
徳兵衛の両名である。
この相野伊兵衛、徳兵衛は、時代背景があるのかもしれないが仙人物、中国物を
得意とし、日本武者の彫物は極めて稀である。
相野伊兵衛、徳兵衛の刻んだ彫刻で製作年が明確に判明しているものは、
太子町西町 天保3年(1832年)
高槻市前島 嘉永7年(1854年)
大阪市福島区海老江西之町 安政2年(1855年)
富田林市五軒家町 明治16年(1883年)
の4台程度である。
大坂・浪花木彫史によると相野伊兵衛については4代まで続いたと記載されている
が、地車彫刻としては初代のみのようである。伊兵衛は、獣花物および仙人物以外
に見ることができないが、いずれも写実的であり上品な彫物が多い。
相野徳兵衛については、相野得兵衛と刻まれることもあるが同一人物と思われる。
徳兵衛も伊兵衛に劣らず仙人物を得意とするが、伊兵衛にくらべてユーモラスな雰
囲気を醸し出しており独特のイメージで彫物を刻んでいる。
また、三国志を題材とした彫物も数多く残しており美髯公と呼ばれた関羽の彫物は、
凛とした表情で圧倒される。

 相野伊兵衛直之

翠虚 相野伊兵衛直之

翠虚 相野伊兵衛直之

翠虚 相野徳兵衛直信

相野伊兵衛直之

黄石公と張良 相野伊兵衛直之

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下の図と同図柄になっているが、黄石公の表情が違う。張良の顔の表情が同じである
ことからおそらくこの黄石公の顔は、欠損の為彫りかえられたものであると推測される。

黄石公と張良 相野伊兵衛直之

馬師皇 相野徳兵衛直信

関羽雲長 相野徳兵衛直信
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恐らく新調時から修理が入っていないものと見受けられます。新調時の目がそのまま
なくならず使用されており、現在の新調彫物には見られない凄みを醸し出している。

関羽雲長 相野徳兵衛直信
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徳兵衛の馬具の房は、勾玉のような形で刻まれている。

関羽雲長 相野徳兵衛直信

趙雲子龍 相野徳兵衛直信

費長房 相野徳兵衛直信

蕭史 相野徳兵衛直信

馬師皇 相野徳兵衛直信

相野徳兵衛直信

相野徳兵衛直信

獅子の子落し 相野徳兵衛直信

素盞鳴尊八岐大蛇退治 相野徳兵衛直信

素盞鳴尊八岐大蛇退治 相野徳兵衛直信