大佐

現在の摂河泉において、曳行されている地車(下地車以外)の中では、<大佐>の手にかかる作品がもっとも多く、「上地車の大佐か、大佐の上地車か!」と、評された名匠で、泉州岸和田の地車工匠が、一目も二目もおく由緒ある名門大工である。

<大佐>とは、大工の佐兵衛に由来する名匠で、安土桃山時代末期から昭和30年代初期までの永きにわたり、摂河泉に君臨した堂宮大工であり、地車工匠でもある。

<大佐>事川崎家の先祖は、室町時代まで溯る。(通常、跡目踏襲年数は、1代30年と計算)後年、「川崎屋」と云う屋号の源をなす人物・<大工の佐兵衛>が始めて登場するのは、安土桃山時代末期からである。故に、この人物を初代と記載している。

11代目<川崎仙之助>

天保9年(1838年)に生まれ、大正9年(1920年)6月17日歿す。四代目新佐衛門から、地車を細工したと云われているが、地車大工<住吉大佐>の名を摂河泉・大和・紀州まで広めたのは、この11代目仙之助である。

仙之助が大工棟梁で、宗吉(長男)、安治郎(次男)兄弟が助となり、父子3人で名地車を送り出したと考証する。

晩年の仙之助は、跡目息子宗吉に養われず、次男分家・下川安治郎に死水を取って貰ったと云うことである。また、明治5年の戸籍法改正により、<川崎>姓を名乗る。

12代目<川崎宗吉>

文久3年(1863年)に生まれ、昭和12年(1937年)9月8日歿す。宗吉が12代目<大佐>を襲名するのは、明治25年前後からである。それ以前は、<東だんぢりや>を名乗り、弟安治郎は、<西だんぢりや>を唱え、東と西が軒を並べて名地車を細工するのである。

宗吉はまた、住吉村村会議員にもなっている。明治25年4月改選の第2期・同28年4月の第三期計6年間で、その時の氏名は、川崎総吉と記載されている。

宗吉の晩年は、ある一つの失敗により、酒で身を持ち崩し、由緒ある名門大工<住吉大佐>本家を潰しかけ、住吉出見の浜に在った「住吉高灯篭」の灯明番まで落ちぶれたと云われている。

その時、実弟安治郎が手を差し伸べ、甥・佐太郎(宗吉長男)の後見人となり地車を建造させ、<大佐>本家を存続せしめたと云うことである。(この手の地車が多くあるとのこと)

13代目<佐太郎>

明治14年(1881年)に生まれ、昭和30年(1957年)11月17日歿す。宗吉の長男で、一時・父の極道に居たたまれず別居し、苦労したと聞く。後、叔父安治郎の協力により13代目<大佐>を名乗る本家最後の大工棟梁である。

<西だんぢりや>

下川安治郎

慶応元年(1865年)に11代目<大佐>川崎仙之助次男として生まれ、昭和15年(1940年)7月15日歿す。徴兵逃れの為、親戚で絶家していた堺の新堀(現在の堺市金岡付近)庄屋<下川>家を再興し分家する。以降、兄宗吉が<東だんぢりや(東の大佐)>・弟安治郎が<西だんぢりや(西の大佐)>を名乗る。安治郎は、彫物も細工し、父11代目存命中の出仕事は、一手に引き受けたと云われている。

<東だんぢりや>が実在したかどうかは?

若松均氏著 摂河泉地車談義 地車工匠篇より